キュアセブン技術ブログ

考えたこと,学んだことを書きます

じいちゃんが死んだ

わたしのおじいちゃんが今日天国に旅立った.平成の次の時代を知らずに亡くなった.

私の両親も祖父母も死んだことがなかったので今までで最も近い人の死になった.老衰です.

実はこの記事昨日書き終わっていて,今日あげます.今日は悲しくて文字書く元気なんてない.

思い立ったことつらつら書いただけなので体裁整えてません.わたしの覚書です.

 

経緯

金曜日母から土日帰ってこれる?とLINEがきて,イベントスタッフとアカペラの本番だと言ったら月曜日から(実家に)帰ることになった.喪服は私のを着てくれなどのやりとりが切なかった.息が浅くなってきていてお医者さんにそろそろ覚悟をと言われたそうだ.

私はこれを聞いた時,泣きはしなかった.風邪のせいか,大雨のせいか,どんよりとした気持ちに包まれた.あらゆる欲がなくなり,体全体が「じいちゃん」で包まれた.それは悲しさではなく,ただじいちゃんに思考を支配された.

今日はクリエイティブハントの途中に母から電話があり,亡くなったことを聞いた.司会変わってもらったりありがとうございました.

 

私とじいちゃん

今までのじいちゃんとの関わりに思いを馳せた.

赤ちゃんの時初めて名前を呼んだのは「じいちゃん」だった.じいちゃんの膝ではすぐ寝たらしい.

私は幼い頃からじいちゃんっ子だったと言っていいだろう.回らない寿司屋によく連れて行かれ,美味しい寿司を堪能した.私は小さい頃から回らない寿司屋の寿司や酒のつまみが大好きだった.いつもじいちゃんの横の席でつまんだ.小さい頃おっさんっぽい食べ物が好きだったのは絶対じいちゃんのせいだ.

じいちゃんは派遣会社の社長だったので当時は私と私の家族を寿司屋や旅行によく連れて行ってくれた.私の初めての海外もじいちゃんの会社の関係で幼い頃行った韓国のはずだ.

トイザらスに行っては「なんかいるもんないか」と言って一輪車や竹馬を買ってもらったりした.どこかへ出かけると「ソフトクリーム食わんか」と言ってはバニラのアイスクリームを買ってくれて,一緒に食べた.ばあちゃんや私の両親は糖尿病のじいちゃんをいつも叱っていた.

じいちゃんは会社の関係でカープの選手とよく飲みに行っていて,うちに東出のバットや栗原,マエケンのサインがある.会社がうまくいっている時はかなり散財していたように思う.

じいちゃんの派遣会社は大不況の時倒産した.そこからじいちゃんの老後生活が始まった.じいちゃんは家でプレステの将棋をしたり西部劇の映画を見たりテレビを見ていた.耳はその少し前から遠かった.だんだんテレビの音量が大きくなって,ばあちゃんは結構ストレスになっていたようだ.ボケてきてからはテレビのチャンネルを変え続ける1日を送っていた.目標地点まで車で行けなくなった.深夜神戸の警察から連絡があって,迷ってるじいちゃんが捕らえられた(?)という事件もあった.車の運転がフラフラになり,母はじいちゃんから車を取り上げた.その車を私が譲り受け,山口で運転することとなった.

その1週間後(車取り上げて大正解だった),突然ある日の朝呼んでも起きてこなくなり,そこから病院生活になってしまった.その日の直前までパチンコに言ったりタバコを吸ったり買い食いしていたのができなくなったので,入院生活が始まるとみるみる痩せていった.

ばあちゃんは毎日病院に通い続けた.ばあちゃんちとの距離が60歩なので母はその送迎を毎日やった.ばあちゃんは今までいい思いをさせてくれたので今はこのために生きると言っていたが,母は時間が制限されるのでかなり辛そうだった.

私も月1ペースで実家に帰省するたびにじいちゃんの見舞いに行った.最後に見舞いに行ったのは国際学会の直前,10月8日.風邪を引いて熱が出たのでやばいかもしれないというのを聞いていたのでもう生きているうちに会えるのも少ないなと思いながらじいちゃんに手をつないで喋りかけた.人が見舞いに行くと,じいちゃんは人の顔を目で追う.私のことが分かっている様ではあった.もともと無口な人なので,喋っても返事がないのはそんなに違和感がない.

 

 

寝たきりになる2年前,私はじいちゃんとばあちゃんを連れて花見に行った.車を運転できる様になったし,いつも家でテレビを見ているだけなのでどこかに連れていきたいと考えた.じいちゃんは無口だったけど桜の下で弁当を黙々と食べていたし,ばあちゃんはとても喜んでくれた.私からじいちゃんにできたことはそれくらいだったけど,花見に行ってよかったと思う.成人式の直前に,60歩先のじいちゃんちに晴れ着を見せに行ったのもよかった.

じいちゃんともっとこうしてればよかったなどの後悔はなくて,悲しくて泣き崩れる訳でもないのは,まだ心の整理ができていないからだけど,ずっと整理できないままだと思う.じいちゃんが死んだというどんよりした事実を抱えてこれから生きていくことになる.

母は10月8日の私の最後のお見舞いの数日前,熱が下がったじいちゃんに対して「娘に生まれてよかったよ」とその他お礼を大きく書いた紙を見せたらしく,間に合ってよかったと泣いていた.親が死ぬ母に思いを馳せると,涙が止まらなくなる.私が成人し,社会人になる間に,じいちゃんばあちゃんは体にガタがきて,両親も確実に死に近づいていく.時間は残酷にも進んでいく.

長い歴史の少しの時間を奇跡的に共有できたじいちゃんとの出会いに感謝します.今までありがとう.

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